(2017.12.31)
こちらです。 →「抜け道だらけのブログ」(2018.06.06)追記
元々、『夜の床屋』のPRのためにサイトを作ろうと思いついたとき、せっかくだからHTMLとCSSも覚えたら面白いんじゃないか、と1ヶ月ほどにわか勉強してつくったのが、このHPです。
勉強したといっても、必要最小限の知識を習得するのが精一杯で、できあがってみるとあまりにシンプル過ぎ、「これでサイトと名乗るのはおこがましい」と腰が引けて、古風にホームページと銘打ち(大げさだな)ました。
ネットの中に自分発の情報があればいいな、という程度の気分だったので、まずまず満足していましたが、例外がこの〈覚え書き〉ページで、1年につき1ページのモノグサ仕様にも関わらず(というか、それがゆえに)、更新作業が実に面倒です。
面倒くさがるほど更新していないくせに、と自分にツッコミを入れつつ、借りているサーバーにブログサービスが付いているので、じゃあ、そちらにしようか、と考えた次第です。
というわけで、来年も引き続き、『抜け道だらけの迷宮』をよろしくお願いします。
(2017.11.23)
少し前に東京創元社さんから頂きました。
今更言うまでもないですが、凄いものを読んでしまった、という感じです。
中でも「黙示録の三人の騎者」と「博士の意見が一致する時」が実に素晴らしい。
根拠はありませんが、作者はこれらのアイディアを軽々と思いつき、さらっと書いてしまったのではないかと思えてなりません。
想像するだけで恐ろしい話です。
恐ろしいけど、できれば一度でいいから、作者の姿を遠くにちらりと見てみたかった。あくまでも近い距離ではなく遠景の中に、たとえば車が行き交う道路の反対側を悠々と歩いて行く姿とか。(私が生まれる三十年以上も前に亡くなっているので、目撃することは不可能ですが)
もしそんな場面に遭遇したら、きっと誰彼構わず、「実は今日、チェスタトンを見たんですよ!」と話して聞かせたくなるだろうな。うん、話してみたかったです。
(2017.11.06)
高井忍さんから新刊を頂きました。
表題作は、タイトルから想像がつくように、京都見廻組の面々が近江屋に潜伏中の
坂本龍馬を暗殺しに行く話なのだが……そこから予想外の展開に!
およそ似た小説を思いつかない、不思議で愉快な歴史ミステリです。
(2017.10.14)
夏の終わりに台湾へ行ってきました。
飛行機とホテルだけを予約して、台北に二泊三日の旅です。
旅行の目的が、台北の街をあてもなく散策したいというものだったので、観光旅行で定番の國立故宮博物院にも台北101にも行かず(実質一日半しか時間がなかったため。本当は行ってみたかった)、ひたすら街をぶらつく非生産的な時間を過ごしました。
私は知らない場所に行くとすぐに道に迷う人間ですが、今はスマートフォンで好きなときに現在位置を確認できるので、安心して土地勘ゼロの台北を彷徨うことができました。まったく、恐ろしいほど便利です。スマホを持たずに同じことをしたら、間違いなく遭難します。
唯一、心配だったのは食事でした。海外での一人メシは初めての経験です。旅行客向けの店を選べば安心なのでしょうが、できれば地元の人が使う店で食べてみたかったのです。
英語は通じないと聞いていたので、ガイドブックに載っていた「食べ歩きに使えるフレーズ」を必死に暗記したのに、いざとなるとまったく出てこない、という懐かしい状況に直面し(学生時代、テスト用紙を前にすると、よくこの現象に見舞われていた)、
結局、
「ニーハオ。えーと、魯肉飯……を食べたいのですが。いえ、テイクアウトじゃなくて、店内で」
などと、ほぼ日本語の物言いで押し通す、という情けないことになりました。
お昼時に手間のかかる客の相手をする羽目になった店の人には、申し訳なかったと反省しています。
しかし(おそらく)身振りを交えたおかげで、何とか意思疎通ができ、魯肉飯と、豚肉と野菜のスープ(料理名が覚えられなかった)を味わうことができました。謝謝。
写真もいろいろ撮りました。撮ったのですが……。
人が写り込んだ写真は載せられないので、より分けていくと、わずか数枚しか残りませんでした(しまった。撮るときは、そういうことを考えていなかった)。
龍山寺の屋根です。たくさんの方が参拝に来られていて大変な賑わいでした。あまり物見遊山の気分で入ってはいけない気がしたので、カメラをバッグに仕舞って門をくぐり、静かに境内を一巡りしてきました。写真でも分かる通り、彫刻が実に素晴らしいです。
崋山1914文創園區を抜けた先にある広々とした公園からの一枚。たぶん南西の方角に向かって撮ったものです。公園にはちょっと不思議なオブジェがありました。
台北の街は、現代的なビルとクラシックな建築物が同居していて見飽きません。
旅先で書店に入るのも旅行の楽しみの一つです。というわけで台北の書店に行ってみました。
大きなデパートの中にある誠品書店と、台北駅近くにあるずらりと書店が並んでいる地下街です。
どのお店もとても洒落た雰囲気なのに感心しつつ、ここにある膨大な書物を私は一冊も読むことができないのだと思うと、何だか不思議な気分になりました。
しかし日本の書店へ行けば、その気になれば私はお店に並んでいるどの本でも読めるわけです。考えるとそれは、なかなかに凄いことではありませんか。
台湾に行く前は、中身が読めなくても、記念に何冊か買おうと考えていたのですが、結局、手にとって眺めただけで帰ってきました。
自分の専門分野のことなのに、こんなに淡泊でいいのかという想いが、ちらっと頭をよぎります。もっとガツガツと接してもいいのではないか、と。
でもまあ、この歳までこういう感じでやってきたのだし、この先もきっとこういう風にしかできないのだろうな、と思いながら、帰りの飛行機の中でヘレン・マクロイの『月明かりの男』を読みました。この本を持っていったのは、たまたま旅行前に読み始めていたからで、他に理由はありません。読み終えたとき、飛行機は四国の上を通り過ぎるところでした。
おみやげは、パイナップルケーキと、財布がはち切れそうな大量の硬貨です。
普段使っていない硬貨を上手く使うのは実に難しい。その人が旅慣れているかどうかは、小銭入れを見れば分かるそうですが、私は永遠に旅慣れない予感がします。
(2017.09.17)
高井忍さんから御著書を頂いたので紹介します。
光文社より9月14日発売だそうです。
表紙は少し怖い雰囲気ですが、読んでみると印象はもっと軽やかでした。扱う事件は奇怪なものが多いですが、藤原道長や安倍晴明や渡辺綱(鬼退治で有名な豪傑)たちが颯爽と活躍する物語です。
(2017.04.26)
ずっと不思議に思いつつ、何となくそのまま放置している疑問が幾つかあります。
たまに思い出しては、あれってどうなってるんだろうなあ、と考えてみるものの、答えは見つからず、面倒になって再びがらくた箱(役に立ちそうにないのに、捨てずにとってある事柄の脳内保存場所)に放り込み、また数年間は忘れてしまう、そういう種類の疑問が。
そのほとんどは、日々の生活や仕事に何の関係もない、どうでもいい疑問です。
たとえば、「カタツムリの殻は、なぜ大きくなるのか」
ご存じの通り、カタツムリの殻は中空構造で、しかも螺旋状になっています。
その複雑な形状の殻が、螺旋の形を保ったまま、しかも殻の模様もそのままに、じわじわと大きくなっていく……。
理由を一生知らずに過ごしても、何の支障もないわけですが、実に不思議です。
もちろん調べれば答えは得られるでしょう。
しかし、こういう種類の疑問はあえて調べないでおいて、ときどき思い出して首を傾げている方が、何となく愉しいような気がします。
ところでカタツムリの殻の謎を思うとき、私はいつも、もうひとつの謎を連想します。
「ではヤドカリの殻は、なぜ大きくならないのか」
(それは謎ではない、というツッコミはなしで)
容易に思いつく答えは、カタツムリの殻は「生きて」いるけど、ヤドカリの殻は「死んで」いるからだ(洒落ではなく)、というものです。
ヤドカリが家として使っている殻は、死んで中身が消滅した巻き貝の殻です。死んだ殻なのでそれ以上は成長しない。
一方、カタツムリの殻は生きているので中身に合わせて日々成長していく。
だからカタツムリの殻は大きくなるし、ヤドカリの殻は大きくならない。
なるほど、たしかに理屈はそうなります。しかし、手のひらに巻き貝の殻を乗せて眺めてみると、いまひとつ釈然としない気分です。
だってそうじゃありませんか。たとえばシジミを思い浮かべてください。鮮魚店で買ってきたシジミは生きています。その数時間後、熱々の味噌汁の具となったシジミは当然ながら生きていません。だけど箸で摘まみ上げたシジミの殻は、見た目も触感も、まったく変わらないのです。冥土に旅立った後も何ら変化が生じない物質に、生死という概念を当て嵌めていいのか? 私は未だに態度を決めかねています。
さらに妄想を展開させると、遠い未来、人類に代わって貝類が地球の覇者になったとしましょうか。我々がそうだったように、彼らの文明も高度に発達していき、やがてミステリ小説を書く者が現れるでしょう。だが貝たちが身にまとっている固い殻は、殺されても変化しない……。
となると、彼らが書く小説には、
「ひとめ見ただけで、彼女が死んでいるのが分かった」
という、ミステリ小説ならではの、あの魅力的な表現が使えないことになります。
そのことを、一人のミステリ好きとして、少し残念に思うのです。
……という実に馬鹿馬鹿しい妄想を、電車が次の駅に着くまでの、ほんの数分のあいだに考え、そして車掌のアナウンスで我に返り、また何の役にも立たないことに時間を費やしてしまった、というかすかな徒労感と自己嫌悪を覚えながら、電車を降りるわけです。
(2017.03.10)
何の脈絡もなく、ふっと過去の記憶の断片が蘇ってくることがあります。
最近では数日前、湯船に浸かっていると、小学校の頃に教室の窓から見た校庭の風景を思い出しました。
(授業中の光景です。つまり私は教師の話はうわの空で、ぼんやりしていたわけですな)
普段はたいてい1クラスか2クラスは体育の授業が行われています。しかし、なぜかそのときに限って、校庭には誰の姿もありませんでした。
風が強い日だったので、樹木の葉っぱが激しく揺れていました。
と、突然、校庭の砂粒が一斉に舞い上がったのです。
風を遮る物がない、だだっ広い場所なので、強い風が吹けば砂が舞うことはよくあります。
けれど、そのときは少し様子が違いました。
校庭全体が霞むほどに大量の砂が舞い上がって、渦を巻き始めたのです。控えめに言っても直径二、三十メートルほどの巨大な渦です。もちろん、そんな大きな渦を目にするのは初めてでした。
あっと思った途端、渦は四散して消えてしまいました。
たぶん、時間にして数秒くらいでしょうか。
不思議なことに、その渦を目撃したのは私一人らしく、休み時間に周りに訊ねても、誰も信じてくれず、悔しい思いをしたかすかな記憶があります。
(というか、皆はちゃんと授業に集中していたのでしょう。えらいものです。それに引きかえ……)
何十年も経った今になって、あれこれ考えてみたのですが、あれは竜巻の卵だったのではないか、というのが私の推理です。
竜巻が生じるためには、複数の成立条件が満たされる必要があります。
あの日、私がぼんやりと眺めていた小学校の校庭で、偶然にも竜巻発生の条件が揃ってしまい、その結果、竜巻が誕生しかけたのではないでしょうか。
しかし、成立条件はわずか数秒間しか続かず、すぐに条件は失われた。だから竜巻はそれ以上成長せずに消滅してしまったのです。
もし私の妄想が当たっているとすれば、なかなか危ういところだったことになります。
あのまま条件が欠けることなく竜巻が成長したら、どうなっていたか。
渦の上端がするすると延びて雲にまで達し、竜巻はどんどん大きくなりながら、周囲の大気を猛烈な勢いで巻き込み、吸い込んだ物すべてを彼方に放り投げていきます。
そうなれば竜巻からわずかしか離れていない我々も、ただでは済みません。
校庭に面した校舎の窓ガラスが、一気に砕け散り、机の上に置いていた教科書やノートや鉛筆や消しゴムや、チョークや黒板消しや出席簿が、軽々と窓の外に飛んでいきます。
私たちは必死に机にしがみついて、飛ばされまいと足を踏ん張る羽目になったでしょう。
実際にそんなことが起こっていれば、一生忘れ得ない日になったはずですが、幸いなことに、竜巻(と言い切って大丈夫か?)はあっという間に消え去ったため、今ではあれが何年生の時だったのか、季節がいつだったのかも、まったく覚えていません。
(2017.02.04)
先日、立ち寄った書店さんに、発売から二ヶ月経った『週末探偵』が面陳(平台ではなく、書棚に表紙が見えるように重ねて並べる置き方……説明的だな)されていて、ちょっと感激です。
本を買って下さった方も、書店の方も、本当にありがとうございます。
かなり前から依頼されていた書き下ろし長編のプロットが、ようやくまとまって、本編を書き始めました。
これまでの三冊は作者が自由に書いたものですが、今回は編集者さんから「こんな感じの小説を」とリクエストがあり、それを踏まえて物語をつくりました。
と言いながらも、リクエストから外れてしまった要素もけっこうあり……。
よくOKが貰えたなあ、と安堵しつつ、これ以上予定が遅れるとさすがに拙いので、気合いを入れて書いていきます。
(2017.01.04)
いつものように、のんびりした年末年始でした。
今年も仕事の依頼が来れば嬉しいのですが、さて、どうなることやら……。
では、気を取り直して、個人的な朗報をひとつ。
12月22日発売の小説現代1月号で、ミステリ評論家の千街晶之さんが、『週末探偵』を取り上げてくださいました。
思わず読んでみたくなるような素敵な書評をいただき、ありがとうございます。
今年も頑張って書いていきます。